第7回 信頼の構造
【7-1】社会心理学による信頼の二つの定義ーなぜ相手をよく知らなくても信頼は成立するのか?【信頼の構造】
信頼している相手と、信頼が必要な状況のパラドクス
相手への「信頼が必要だと思う状況」はどんなものがあるか?
例えばコンビニで買い物をする時とかには、店員を信頼できる必要はあんまりない
逆に弁護士や医者を選ぶ時とか、取引先を選ぶ時とかには、うっかり変な相手と関わってしまうとマズいし、一目見て相手が嘘をついているかどうかを見抜くことも難しい
つまり信頼が必要な状況とは「相手が嘘をつける状況かつ、もし嘘をつかれたら不利益を被る状況」である
=> このような状況を「社会的不確実性」(略して不確実性)の高い状況であると呼ぶ
一方で、あなたが信頼している人は誰ですか?例えば30万円貸してくれって言われたりしても契約書なしでお金を貸せる人とか
-> 家族?恋人?友人?同僚
これらの相手とは、「長年の(一定期間の)積み重ね」があるから信用できる
しかし、例えば家族と日常的に「嘘を吐かれるかもしれないような取引」はしていないのではないか?家族や友達とはそもそも取引関係ではなく、運命共同体的になることが多いので、嘘をつかれる可能性そのものが低い
=> つまり、さっきの言い方をすると不確実性が低い
これらの二つの事柄をまとめると、「信頼」という行為は対して信頼関係がなくても成り立つ間柄に存在しているのに、まさに信頼関係が必要とされる状況「= 騙されるかもしれない状況」ではあまり存在していないというパラドックスがある
このパラドックスは、「信頼」という言葉の持っている多義性から生じている
まず(本題ではないが)信頼という言葉には「能力」への信頼と「意図」への信頼がある
これは本題ではない。さっきの質問は、基本的に後者 = 意図を問題にしようとしていた
「意図への信頼」にも、二つの全く異なる概念が重なっている
信頼という言葉には、人格評価的な側面があり、一般的にはそのようなニュアンスで使われる
例えば、「あの人は誠実だ」とか「嘘をつくタイプじゃない」とか
しかし、仮にもし全員に「針千本マシン」が埋め込まれていたらどうだろうか?
嘘をつくと直ちに針千本が自分の喉に突き刺さるという機械
「もしこんな状況なら、我々はみんなを信頼できるだろう」
これは相手から裏切る選択肢を奪って「社会的不確実性」を減少させる行為である
会社同士の取引において、「お互いの信頼関係をより強固にするために、資本提携を結ぼう」とかそういう事をやったりする
これは実質的にはお互いの喉に針千本マシンを設置しあっているのに近い行為である
まとめると、「意図への信頼」(相手はきっとこうするだろう)にも「相手の人格への評価」と「相手の損得勘定への評価」の二つがある
これを、信頼と、安心というように二つに分けて呼ぶことにする
信頼は、相手への人格的な評価であり、安心は相手への損得勘定の評価となる
先のパラドクスの種明かしは、「この二つの信頼が混同されていること」にある
社会的不確実性の低い状況(いわゆる身内 = 家族・同僚)においては、相手が自分を裏切ることによるデメリットが大きいので「安心できる」のである
付け加えると、例えば犯罪グループのグループが成立しているのは、「人格への評価」ではなく、「身内の中での安心」によるところが大きい
グループの外の人を平気で騙したりする人の人格は評価できるようなものではない
しかしグループ内で自分だけ得しようとしたら、報復され、爪弾きにされるとみんな分かっているから、身内で裏切り行為を働くリスクは非常に大きい
ルイスとワイガードの論文(7000件くらい引用されている)で「信頼は予測の終わるところから始まる」と書かれているように、相手の行動を予測することによって得られる信頼は「安心」であって、相手の人格的な選択を「信頼」しているわけではない
【7-2】和を重んじる日本人ーしかし実際にはアメリカ人の方が他人を信頼している(?)【信頼の構造】
日本とアメリカは、どちらが集団主義 <-> 個人主義 だと思いますか?
よく聞く話としては、企業が書面を交わす事の重要性はアメリカの方が高い
めちゃくちゃ長い契約書を交わし、何かあったら訴訟するアメリカに比べて、日本では「電話一本」で取引を行うような関係で成り立っている会社も少なくない
一見アメリカは騙された方が悪い、訴訟で負けた方が悪い、といういかにも信頼のない社会であるかのように見える
しかし、個人ベースでアンケート調査をすると、アメリカ人の方が他者を信頼している、という結果になる
アンケート内容は、「世間一般の人は、たいてい信用できると思いますか?」といった内容
あとは、「初対面の人に対しては、用心するに越した事はない」とか
これは一見パラドックスなのだが、安心と信頼を混同せずに考えると、すんなり理解できる
「日本が集団主義だ」と言われて、信頼関係で成り立っている社会であるかのように言われているのは、先の定義に従えば、信頼ではなく安心による効果である
つまり日本人は「安心関係」を構築しているのである
恋人型とヤクザ型
恋人型が、情緒的な繋がりによって安心を獲得するのに対して、ヤクザ型は敵対的な外部社会があると想定し、それに対抗するために安心関係を構築する
先の例である会社同士の結びつきはヤクザ型の安心関係である
「人をみたら泥棒と思え」「社会は戦場だ」などの言説は、「誰かと安心できる関係を結ぶ以外に、社会を生き抜く術はない」と解釈できる
もし本当に、「一般的な他者」を信用しているなら、特定の誰かと安心関係を作る必要はない
安心関係が構築されていく過程の実験「反復二者囚人のジレンマ」
相手と自分、双方が協力すると、互いの利益が最大化される
自分だけが相手を裏切ると、自分の利益が最大化される(逆に相手だけが裏切った時、自分は大損する)
どちらも非協力だった場合、裏切られた場合程損はしないが、協力するよりも利益を得られない
この囚人のジレンマにおいて、どのような戦略を取る??
自白するとかではなく、お金をかける場合を想像して下さい
相手に送ると2倍になって相手に届くPayPay残高をお互いにもらった状況、みたいな事
例えば1000ポイント持っていて、お互いに送り合えば、2000ポイントづつもらえる
自分だけ裏切れば、自分だけ3000ポイントで相手は0ポイントになる
一回だけの場合と、複数回の場合をどちらも想像して欲しいです
実験の結果
二人の人間で、囚人のジレンマを繰り返し行うと、最初にお互い裏切り合った後に、協力が増加してくる
一回の囚人のジレンマなら「勝ち逃げ」が出来るが、繰り返し行なっているとそうはいかない
徐々に、自分だけが搾取するのは不可能だ、という認識がお互いに形成される
こうして最終的に互いに協力するようになる
こうして構築された関係は、「信頼関係」ではなくて、「安心関係」である
別に相手のことを、人間として信用できる、とかそんな事は思っていない
裏切ったら、裏切り返されて結局自分は損をしてしまう、という損得勘定に基づいた「利己的な協力行動」に過ぎない
安心関係は、結果的に不確実性を減少させる
お互いに「相手が合理的に動いたら、こうなるな」という事が分かっているから、毎回、相手の行動を観察したり、自分を信頼してもらうために売り込んだりしなくても、お互いの予想通りに事が進む
これを日本社会とアメリカ社会に当てはめ直して考えると、日本社会では一度関係を築いたら、その関係にずっと留まっている方が「安心」だから、それ以外の他者には基本的に疑ってかかるような社会である、という言い方ができる
【7-3】身内びいき、コネ社会のデメリットー信頼関係を構築しやすい社会とは?【信頼の構造】
日本では安心関係を構築しているが故に、それ以外の他者を信用していない傾向があるのではないか、という話
これは社会的不確実性(裏切られるかも)を減少させ、また取引コスト(信用するための裏どりや契約書の締結)を下げる意味でも有用である
ではどこに問題があるのか?
まず、良し悪しの問題はさておき、アメリカ人が「日本人はフェアじゃない」という旨の発言を多くしていた時があった(貿易が活発になっていた頃
端的にいうと「身内びいき」の問題である = コネ社会
そしてこれは、個々人の人間性の問題ではなく、社会に埋め込まれると、誰でも「身内贔屓」をせざるを得なくなってしまう
例えば、大学の教授が研究員のポストに自分のゼミ生を割り当てやすくするような傾向がある中で、一人だけそれをやらなかったら、その教授は「冷たいやつ」だと思われてしまうだろう
(まあこれはどっちがいいかは分からん)
極論、自分の子供よりも他人の子供の命を(何らかの指標によって)大切にするような人間はどの国でもひどいやつだと言われるはず
実際的な問題としては、機会損失(機会コスト)がある
ずっと一つの関係に固着していると、新しい関係によって得られたかもしれない利益を逃してしまう
どんな状況なら、安心関係に固着せずに、信頼関係を作っていけるか
信頼される側と、する側がどちらも、利益を得られるような状況なら、安心関係から信頼関係に移行できるのではないか?
この二つが満たされると、信頼される側は他者から信頼してもらえるように誠実に振る舞い、信頼する側も、変に相手を疑ってかかったりせずに、新しい関係に乗り出す事が出来る
信頼される側が利益を得られる状況 = 社会的不確実性が高い状況(= みんながお互いを疑ってかかっている状況)
「裏切り者が大勢いるような市場」
例えば、品質にバラつきのある商品が多い市場(例えば弁護士や医者とか、ラーメン屋とかもそうかもしれない)
みんなが「誰を信用すればいいか分からない」と思っている状況で、自分だけ信用されるポジションになれば、多くの顧客が獲得できるので、メリットが大きい
信頼する側が利益を得られる状況 = 機会損失が大きい状況
新しい相手と取引することに対して、期待できるメリットが大きい
(具体的な状況を考えるのは結構難しいが…)
目まぐるしく商品開発が進んでいる状況とかでは、自分がこれまで利用していたものよりも、新しいものを試してみることによる効用が大きい
あんまり良くないが、日本の第二新卒採用とかもこれに該当するかもしれない
転職した方が給料が上がる、みたいなの
このような状況の中では、お互いに新しい関係を構築するために、自分を信頼してもらおうとし、逆に新しく信頼できる相手はいないかと探す事に労力を割く
【7-4】信頼も安心もできない日本社会(?)、高度経済成長、ネオリベラリズムなど【信頼の構造】
日本の高度経済成長は、「安心関係的集団主義」によって支えられていたのではないか?
すごく悪い言い方をすると、集団主義者的に振る舞わないと、爪弾きにされるということで、個人の主張が抑圧されており、その分その関係に留まっていれば、一定の利益は約束されるような状況
逆「他者のぬけがけ」する心配もしなくてよかった。もし嘘をついて自分だけ得しようとする人がいれば、集団によって制裁を受けるのだから
社内と社外、どちらにおいても安心関係を結ぶことで、摩擦を減らして経済成長に専念できていた
小泉内閣の構造改革が当時は肯定されていたのは、何となくみんなが集団主義に行き詰まりを感じていたからではないか?
では現在、未来の日本は安心から「信頼」へと移行している/できるのか?
山岸さんは、出来ていないと考えている
かつての日本では、「みんなとの約束事を守っていれば、それなりの成功が約束されていた」が、今はそうではない
= 安心出来ない社会になってしまった
しかし、「他人を信用しない」という習慣だけは、残ってしまった
文化は経済よりも遅れて変化していく
「他者を信頼できる人は相手が信用に足る人物かを見抜く能力が高い」ことも研究でわかっている
「お人好しはバカで騙されやすい」というのは実験で否定されている
アメリカ人は平均的にこの能力が高いとされている
信頼できる相手を見定めないと生きていけない「Not安心社会」では、安心社会よりも「見極め能力」が鍛えられる
逆に安心社会で身に付く能力は、「空気を読む能力」である
参考文献